私の行動は“わたし”ではない。
私の感情は“わたし”ではない。
私の信念は“わたし”ではない。
それどころか私のアイデンティティですらそれは“わたし”ではない。
“わたし”とは固定された何かではなく、
コンテキストに沿って生成されるプロセスのことである。
だから「本当の私」とか「本来の私」を探し始めると魔境に入ることになる。
症状とはその人にとって否定的な何かと“わたし”が同一視された結果だと思う。
曰く、
「私は〇〇ができない」
「私は××の才能がない」
「私は怠け者である」
と云々。
閑話休題。
だから「私は武術修行者である」というアイデンティティも“わたし”ではない。
そこには「私」と私がするものとしての「修行」という二項がある。
実際、私は「私が武術の修行をする」というイメージで武術修業をとらえている。
かつて沢庵宗彭師の『不動智神妙録』を読んで非常に感銘を受けた。
感動して涙したことを覚えているのだが、その時思ったことは
いつかはここに描かれた境地に達したいものだ、というもの。
つまりは私が修行をするのではなく、修行が私で私が修行。
というか修行。
コーチングを能くするものとしてははなはだ不穏当だが、
その境地に達した時に初めて「ああ、俺は修行だ」という
フィーリングが得られるのだろう。
知行合一を考えていての連想である。
Comments