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瞑想という習慣

  • 執筆者の写真: 北区堀船カンフークラブ
    北区堀船カンフークラブ
  • 2018年3月8日
  • 読了時間: 2分


(我が愛刀、鹿嶋の黒き木剣)

職業柄、瞑想について学ぶことも多い。

瞑想とは無念無想になることに非ず。

呼吸でも、月でも、漢字一文字でもいい、

何か一つのことだけに意識を集中し続けることをいう。

言うは易く行うは難し。我ら凡骨の頭には必ず雑念が湧いてくる。

「余計なことを考えてはいけない」

「この雑念をどうにかしなくては」

このような態度こそ瞑想を邪魔するものである。

ではどうするか。

「ああ余計なことを考えているな」と気づくこと。

「“この雑念をどうにかしなくては”と考えているな」と気づくこと。

そしてその気づきをそのままにほおっておき、

呼吸なり、月なり、漢字一文字なりに意識を向けなおすこと。

これこそが瞑想である。

注意を集中するものは何でもいい。

だから最近習慣にしているのは

「木剣をにぎる感覚だけに注意を集中する」瞑想である。

自然に立つ。切っ先を下に、その重さを感じて木剣を手にする。

その手から徐々に力を抜いていく。

あとほんの少しでも手の内を緩めたら木剣を取り落とす、

そのぎりぎりを感じてそれだけに意識を向け続ける。

「身体が揺れてきたな」

「“どのくらい時間が経ったかな”と考えているな」

「“この瞑想が武術の修行に役立つかな?”と頭をよぎったな」

気づき続ける。

「“もうそろそろやめよう”と思ったな」

だいたい30分が過ぎている。

これが何かの役に立つかどうかは分からない。立ったらそれは嬉しい。

だが瞑想は瞑想それ自体のために行うもの。目的を持ったら瞑想ではないのだ。

ただ、“この瞑想にカッコいい名前を付けたいな”ということには気づいている。

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